Posted by 松浦巽 - 2013.02.08,Fri
中編小説。ちょっと三角関係。
※pixivに別バージョンのお試し読みあり
※pixivに別バージョンのお試し読みあり
傷痕フェチの緒方は、右腕に大きな傷痕のある消防士・北川と知りあう。たびたび出くわすうち、互いの人柄に惹かれ、急速に親しくなっていく2人。そんなある日、北川の旧友・水瀬が現れ――。
▼お試し読み▼
いまの自転車にぶつかられたのだろう、一人の男が歩道にしゃがみこんで、散乱した荷物を拾い集めていた。長袖のTシャツにジーンズという軽装。ショーウィンドウの明かりに照らされた顔はまだ若く、緒方と同年代に見える。伸ばした右手には、手の甲から袖口まで広がる、ひきつれた傷痕。
それを見た瞬間、緒方は男に近づいて声をかけていた。
「手伝いますよ」
男は驚いた顔を見せたが、拒まなかった。
「すみません、ありがとうございます」
そうこうするうちに、防火服に身を包んだ消防士たちが、ホースを巻きながらポンプ車の方へ戻ってくる。
「あっ」
一人の消防士が、ヘルメットについた首の保護布を開き、目元のシールドを上げたのを見て、緒方は小さく声を上げた。
――あの人だ。
怒っているようにも見える、きまじめな顔つき。声をかけるのがためらわれるような、冷たく澄んだ瞳。
明るいところで見るのは初めてだったが、あの男に間違いなかった。
傷痕にすっかり魅せられている緒方の様子を見て、男は逆に問いかける。
「ずいぶん熱心に見ているけど、何か特別な理由でも?」
「あっ、すみません!」
「別れた恋人に、傷痕があったとか」
「えっ? いや、そういうわけではっ」
当たらずといえども遠からずな指摘に、緒方はうろたえ、思わず顔を赤くした。
男はまた目を見開き、口角を上げて初めて笑顔を見せた。
「いや、よけいな詮索はしません。これでおあいこですね」
「もともと、飼うつもりはなかったんだ。前のアパートの近くで、弱っているのを見つけて。貰い手が見つからなかったから、自分で飼うことにして、ここに引っ越した」
「えっ? 猫のためにわざわざ?」
「しょうがないだろ。家をあけている時間が長いし、苦情が来たら困る」
「丸一日いなくても、平気なのか?」
「水と餌をたっぷり置いておけば大丈夫。留守にした分、翌日はずっといるし」
「にゃあ」
食べおえた猫が相槌を打つように鳴いて、緒方の足元にすりよってきた。おっかなびっくり撫でてやると、膝に飛び乗って毛づくろいを始めた。
「チビが人になつくのは珍しい」
「へえ、そうなんだ」
「同僚を泊めたときには、どこかに隠れてしまって出てこなかった」
自分以外にも泊めてもらった人間がいると知って、緒方はなんだかがっかりした。
向きを変えて階段を上がろうとした緒方は、段の陰に何か落ちているのを見つけた。
高級そうな蓋つきのペン――万年筆だ。いまの男のものにちがいない。
緒方は慌てて男を追いかけた。すでに視界から消えていたが、角を曲がると、幸い、大通りへ向かう後ろ姿が見えた。
「すみません! 落とし物ですよ!」
大声で呼ぶと、男は気づいて振り返った。
「これ、あなたのじゃありませんか?」
追いついて万年筆を見せると、男は胸ポケットに手をあてて、はっとしたような表情を浮かべた。
「あ、そうです。すみません。わざわざありがとうございます」
言葉遣いが一つ一つ丁寧で、やはり品のよさを感じる。
緒方は好奇心に勝てず、質問した。
「あの、失礼ですが……北川――さんの、お知り合いですか?」
「え――」
「や、すみません。たまたまちょっと、会話を聞いてしまったもので」
「なんだよ。ずいぶんあいつの肩を持つんだな」
「別に、そういうつもりじゃ」
「飴玉でももらって、買収されたのか?」
そう言った北川の目が、何かに気づいたようにはっと身開かれる。
「もしかして――あいつの傷を見たのか?」
「え?」
「見たんだな?」
「あ、ちらっとだけ――」
がたがたっと激しい物音がして、驚いたチビが一目散に奥へと逃げていった。
北川が立ちあがった勢いで、椅子が後ろに倒れたのだ。
「そうか……そういうことかよ……」
初めて見る北川の怒りの形相に、緒方はつかのま息をすることも忘れた。
「あいつの傷痕を見て、あいつに惚れたのか。だから、俺の荷物を拾ったように、こんどはあいつのお使いをするってわけか。まるで、餌をもらえばだれにでも尻尾を振る野良犬だな」
咳をしながら、緒方は体をひねって、床に顔を押しつけるようにした。有毒ガスは天井からたまり、下の空気のほうがきれいだと聞いた覚えがあったからだ。
建物火災での死因は、火傷よりも、一酸化炭素中毒や窒息のほうが多いという。どちらもぞっとしないが、長時間火で炙りつづけられるより、呼吸ができなくなって早めに意識を失うほうが、ましといえばましかもしれない。
そうは思っても、緒方はまだ諦めるつもりはなかった。
北川に、まだ訊いていないことがある。昨夜のキスは、どういう意味だったのか。北川は、自分のことをどう思っているのか。それを確かめるまでは、なんとしても死ぬわけにいかない。
緒方自身の気持ちはどうだろうか。正直なところ、よくわからない。北川のことは好きだ。人柄はいいし、見た目も悪くないし、料理はうまいし、傷痕フェチにも理解を示してくれるし、キスも気持ち悪くなかった。
――気持ちよかった。
まるでかすめるように触れて、すぐ離れていった唇の感触を思い出し、緒方は指を唇にあててみた。
いまの自転車にぶつかられたのだろう、一人の男が歩道にしゃがみこんで、散乱した荷物を拾い集めていた。長袖のTシャツにジーンズという軽装。ショーウィンドウの明かりに照らされた顔はまだ若く、緒方と同年代に見える。伸ばした右手には、手の甲から袖口まで広がる、ひきつれた傷痕。
それを見た瞬間、緒方は男に近づいて声をかけていた。
「手伝いますよ」
男は驚いた顔を見せたが、拒まなかった。
「すみません、ありがとうございます」
そうこうするうちに、防火服に身を包んだ消防士たちが、ホースを巻きながらポンプ車の方へ戻ってくる。
「あっ」
一人の消防士が、ヘルメットについた首の保護布を開き、目元のシールドを上げたのを見て、緒方は小さく声を上げた。
――あの人だ。
怒っているようにも見える、きまじめな顔つき。声をかけるのがためらわれるような、冷たく澄んだ瞳。
明るいところで見るのは初めてだったが、あの男に間違いなかった。
傷痕にすっかり魅せられている緒方の様子を見て、男は逆に問いかける。
「ずいぶん熱心に見ているけど、何か特別な理由でも?」
「あっ、すみません!」
「別れた恋人に、傷痕があったとか」
「えっ? いや、そういうわけではっ」
当たらずといえども遠からずな指摘に、緒方はうろたえ、思わず顔を赤くした。
男はまた目を見開き、口角を上げて初めて笑顔を見せた。
「いや、よけいな詮索はしません。これでおあいこですね」
「もともと、飼うつもりはなかったんだ。前のアパートの近くで、弱っているのを見つけて。貰い手が見つからなかったから、自分で飼うことにして、ここに引っ越した」
「えっ? 猫のためにわざわざ?」
「しょうがないだろ。家をあけている時間が長いし、苦情が来たら困る」
「丸一日いなくても、平気なのか?」
「水と餌をたっぷり置いておけば大丈夫。留守にした分、翌日はずっといるし」
「にゃあ」
食べおえた猫が相槌を打つように鳴いて、緒方の足元にすりよってきた。おっかなびっくり撫でてやると、膝に飛び乗って毛づくろいを始めた。
「チビが人になつくのは珍しい」
「へえ、そうなんだ」
「同僚を泊めたときには、どこかに隠れてしまって出てこなかった」
自分以外にも泊めてもらった人間がいると知って、緒方はなんだかがっかりした。
向きを変えて階段を上がろうとした緒方は、段の陰に何か落ちているのを見つけた。
高級そうな蓋つきのペン――万年筆だ。いまの男のものにちがいない。
緒方は慌てて男を追いかけた。すでに視界から消えていたが、角を曲がると、幸い、大通りへ向かう後ろ姿が見えた。
「すみません! 落とし物ですよ!」
大声で呼ぶと、男は気づいて振り返った。
「これ、あなたのじゃありませんか?」
追いついて万年筆を見せると、男は胸ポケットに手をあてて、はっとしたような表情を浮かべた。
「あ、そうです。すみません。わざわざありがとうございます」
言葉遣いが一つ一つ丁寧で、やはり品のよさを感じる。
緒方は好奇心に勝てず、質問した。
「あの、失礼ですが……北川――さんの、お知り合いですか?」
「え――」
「や、すみません。たまたまちょっと、会話を聞いてしまったもので」
「なんだよ。ずいぶんあいつの肩を持つんだな」
「別に、そういうつもりじゃ」
「飴玉でももらって、買収されたのか?」
そう言った北川の目が、何かに気づいたようにはっと身開かれる。
「もしかして――あいつの傷を見たのか?」
「え?」
「見たんだな?」
「あ、ちらっとだけ――」
がたがたっと激しい物音がして、驚いたチビが一目散に奥へと逃げていった。
北川が立ちあがった勢いで、椅子が後ろに倒れたのだ。
「そうか……そういうことかよ……」
初めて見る北川の怒りの形相に、緒方はつかのま息をすることも忘れた。
「あいつの傷痕を見て、あいつに惚れたのか。だから、俺の荷物を拾ったように、こんどはあいつのお使いをするってわけか。まるで、餌をもらえばだれにでも尻尾を振る野良犬だな」
咳をしながら、緒方は体をひねって、床に顔を押しつけるようにした。有毒ガスは天井からたまり、下の空気のほうがきれいだと聞いた覚えがあったからだ。
建物火災での死因は、火傷よりも、一酸化炭素中毒や窒息のほうが多いという。どちらもぞっとしないが、長時間火で炙りつづけられるより、呼吸ができなくなって早めに意識を失うほうが、ましといえばましかもしれない。
そうは思っても、緒方はまだ諦めるつもりはなかった。
北川に、まだ訊いていないことがある。昨夜のキスは、どういう意味だったのか。北川は、自分のことをどう思っているのか。それを確かめるまでは、なんとしても死ぬわけにいかない。
緒方自身の気持ちはどうだろうか。正直なところ、よくわからない。北川のことは好きだ。人柄はいいし、見た目も悪くないし、料理はうまいし、傷痕フェチにも理解を示してくれるし、キスも気持ち悪くなかった。
――気持ちよかった。
まるでかすめるように触れて、すぐ離れていった唇の感触を思い出し、緒方は指を唇にあててみた。
PR
Comments
Post a Comment